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松尾流の特徴

松尾流の歴史

家元対談
松尾流の歴史


 松尾流の歴史は文亀2年(1502年)に松尾流の始祖となる辻玄哉が誕生したことに始まります。

 辻玄哉は京都新在家に住む禁裏御用の呉服商でしたが、武野紹鴎の高弟として茶の湯を学び、紹鴎から台子茶湯の秘事相伝を授けられました。また、『茶話指月集』には「そのころ辻玄哉というもの、古来の台子をしる、宗易、玄哉の所へゆきて古流をならひ、御殿においてつかうまつる」とあり、千利休が玄哉から古流の台子を学んだと伝えられています。
 玄哉は生涯、茶の湯者にはならず、数寄者として茶の湯を楽しみました。

 以後、5代松尾宗俊までは玄哉と同じく呉服商をその業としましたが、6代にあたる楽只斎宗二が覚々斎原叟(表千家6代)の門下に入り奥義に達し、松尾流を名乗り流祖(松尾流初代)となりました。その頃、名古屋の町衆たちは利休の茶を学びたいと志し、覚々斎原叟のもとへ代稽古の派遣を乞いました。享保5年(1720)、名古屋へ千家茶道を広めるべく町田秋波が派遣され、その跡を継いだのが楽只斎宗二でした。以来、年ごとに松尾家の当主(家元)が名古屋へ出張して、茶道を教えつつ、京の文化をこの地方へ伝播し、茶道と共に王朝文化が尾張地方へ普及しました。

 近衛家の姫君(安己君)が尾張6代藩主・継友候へ嫁せられたこともあって、2代・翫古斎宗五は尾州徳川家の御用を勤めるようになりました。最後に伺候したのが寛延2年(1749)と記録に残っています。
 この年以後、歴代の家元は名古屋への出張稽古とともに、尾州家の御用を勤め、尾張を中心として、三河、美濃、伊勢をはじめ、京都との道すがら、各地の名家、識者との交流の厚みをましました。

 松尾流中興の祖ともいわれる5代・不俊斎宗五は尾州家10代藩主・斉朝候の厚遇を受け、候の茶会には不俊斎の手造り茶碗・花入れなどを用いた催しが、しばしばありました。

 蛤御門の変で、京都の東洞院通り押小路上ルにあった松尾家も戦禍にあい、名古屋へ一家が疎開しました。江戸時代から明治へと世情は激しく変り、文明開化の余波を受けた茶道も廃れて、京都へ戻るきっかけを失ってしまいました。これが反面、幸いして、当地方の茶道文化発展につながったと考えるものです。

 名古屋に永住をきめたのが、9代・半古斎で、明治の中ごろであり、それ以来、名古屋を中心に活動しています。

 10代・不染斎宗吾は太平洋戦争後の人心荒廃期を、妹・実知や社中がたと力を合わせてのりこえ、体験から伝統文化の興隆は道を通じて行うにしかずと考えました。それは一流一派にとどまることなく、広く大衆への茶道の門戸を開いて、茶道の効用を説き、茶の一服の楽しさを教えるなど、文化の振興に大きく寄与しました。このような努力が認められて勲五等瑞宝賞を受けました。

 松尾流の歴代家元は、当地方の伝統文化向上に心を砕き、着実に一歩一歩ながら発展に寄与し歩み続けております。現家元、妙玄斎宗典宗匠も、同じ針路を進んでいるのです。


松尾流の系譜

松尾流の系譜

歴代家元 号名 好み物 略歴
 始祖 辻玄哉   ナニヤロウ棗 京都新在家に住した禁裏御用の呉服商。武野紹鴎の門人。千利休に真台子を伝授したと言われている
    辻五助     等政と号す。後に松尾姓を名乗るようになる
    松尾宗二     千宗旦の門人。宗旦より楽只軒の茶号を受ける。俗名甚助、物斎と号す。
    松尾宗政     俗名作兵衛
    松尾宗俊     俗名吉右衛門
 流祖 松尾宗二 楽只斎 木賊蒔絵面中次
澤陽茶器
朱茶器
茶の湯は初め町田秋波に学び、後に覚々斎原叟のもとで奥義を極める。名古屋での千家茶道普及に尽力する。俗名治兵衛
 二世 松尾宗五 翫古斎 帽子棗
柿茶器
父である楽只斎に茶道を学び、茶家としての松尾家の基礎を築く。尾州徳川家のご用も勤める
 三世 松尾宗政 一等斎   幼名秀之助。能楽を好む
 四世 松尾宗俊 不管斎   行年25歳、家元としての在世はわずか3年だったが、詩歌を好み特に和歌は堪能であった
 五世 松尾宗五 不俊斎 野風茶器 先代・不管斎が早世したため、その妹・智静の婿養子となったが、不俊斎もまた39歳という早世だった
 六世 松尾宗古 仰止斎 黒柿菊桐蒔絵吹雪
鳶蒔絵平棗
養子として松尾家に入る。名は松本慶次郎為影、伏見稲荷中社の神主・松本筑後守を父に持つ
 七世 松尾宗五 好古斎 提重 鳥羽伏見の戦で京都東洞院押小路にあった住居を焼かれ、名古屋に居を移す
 八世 松尾宗幽 汲古斎   明治21年、父・好古斎の急逝により、茶道修業のため京都で表千家に入塾。碌々斎に師事する。名古屋に戻り八世となるが、別に志すところがあり台湾に渡る
 九世 松尾宗見 半古斎 笹蒔絵棗
木賊兎蒔絵棗
七世・好古斎の長男として生まれる。汲古斎の兄。一度は禅僧としての生活を好むが、先代・汲古斎が台湾に渡ったため九世の家元となる
 十世 松尾宗吾 不染斎 九重平棗
「瑞雲」茶器
伊藤次郎左衛門祐民等と松蔭会を組織し、今日の松尾流の基礎を作る
十一世 松尾宗倫 葆光斎   昭和47年3月24日、名古屋・八事の八勝館において相続の披露茶会を催す。流派の近代化と発展に努め、公益法人として財団法人松蔭会を創設、理事長を務めた
十二世 松尾宗典 妙玄斎   大徳寺龍光院に入り、妙玄斎宗典の号名を受ける。竜安寺大珠院森永宗興師に師事する。財団法人松蔭会現理事長。


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